created: 2022-11-19
Japan Health Policy
目次
- 1. はじめに
- 2. 地方分権化への展開
- 2.1. 衛生行政(明治期からGHQ占領政策の是正まで)
- 2.2. 総合保健システム化の構想
- 2.3. 地域保健体制の確立
- 3. 住民自治への展開
- 3.1. 日本における健康づくり政策
- 3.2. WHOのヘルス・プロモーション
- 3.3. 第二次健康日本21
- 4. おわりに
- 5. 参考文献
1. はじめに
戦後日本では人口構造、疾病構造および社会生活の変容などに伴い、保健医療上の需要が拡大・多様化してきており、さらに厳しい財政状況とも相まって、医療費負担や保健医療提供のあり方が重要な課題として議論されてきた。
日本の保健医療は英米などの諸外国とは異なり、予防を主体とする保健と治療を主体とする医療とが分離した体制を採っている。そして保健活動の現場は保健所 (昭和53年以降では市町村センターも含む)と保健婦 (平成14年に保健師と改名) を中心として展開されてきた。
戦後の保健所は地方自治法に基づく行政機関である一方、保健所法に基づく公衆衛生の実践機関でもあるという二重性格を有するものとされている[1]。
行政機関としての性格は、「法律なきところに行政なし」とされるように、行政活動に根拠法を求め、行政活動を適法性で判断することを特徴とするヨーロッパ大陸型の法的行政の精神に則り、縦割り的、全国画一的な衛生法規に基づき事業を実施するという国家体制の中における性格である。
他方公衆衛生の実践機関としての性格は、民主主義的な体制の中における性格である。これは日本国憲法では民主主義や地方自治を原則とする国家建設が謳われており、公衆衛生においても米国流の公衆衛生の導入がGHQによって推進されたことによるものである。
本稿では衛生行政や地域保健、健康づくり政策に関する国内の政府刊行物、論文、書籍、また適宜WHOの国際会議成果文書などの内容を参考にして、わが国の保健衛生行政上の展開を明治初頭からふりかえり、保健衛生の分野における地方分権化や住民自治に向けての主要な動きを整理することをめざしている。
2. 地方分権化への展開
2.1. 衛生行政(明治期からGHQ占領政策の是正まで)
① 開国から戦争終結まで
はじめに我が国の衛生行政機構の成立過程をみていきたい。
我が国の衛生行政の歩みは明治の開国とともに始まった。 明治5年に文部省医務課が設置され、翌6年に医務局に昇格した。 この時点では医学教育と衛生行政とを併掌していたが、明治8年に衛生行政業務が内務省に移管されて内務省第7局となり、これが明治9年に衛生局と改称された。 以上のような変遷を経て、国家の中央に衛生行政を掌る独立した機関が成立した。
明治12年には、衛生行政機構がさらに整備されていくかにみえた。 すなわち内務省に中央衛生会に設置されるとともに、地方においても、各府県には地方衛生会や衛生課、各町村には公選による衛生委員が設置された。
しかし明治16年には絶対主義推進者の山縣有朋が内務大臣となり、委任事務の増大とその負担による財政貧困化と併せて、明治17年には地方自治の官治化を進めた。 そして明治19年には地方官制改正によって、府県衛生課、地方衛生会、衛生委員が廃止され、明治26年には地方の衛生事務はすべて警察行政の所管とされ、これより以降の衛生行政は取締的性格が強いものとなった。
そもそも明治政府は行政面においてプロイセン・ドイツ流の中央集権的・官僚主義的原理が推進してきたため、衛生行政においても地方自治的・民主主義的な制度が根付かなかったことは宿命的であると考えられる。
開国とともに移入されてきたコレラ、ペスト、痘瘡などの外来伝染病の防遏の緊急性や一般住民の衛生思想の後進性などもまた、衛生行政の取締的性格を増強した。 昭和6年の満州事変の勃発を契機する戦時態勢整備のための時局的要求として、 昭和12年には保健所法が制定され、昭和13年には内務省の衛生局および社会局が分離・独立されて厚生省が設置された。
以上の経緯から、明治期から第二次大戦終結に至るまでの時代の衛生行政は取締的性格が濃厚なものであり、衛生行政そのものを研究・批判する努力は稀薄であった[2],[3]。
② GHQ主導の改革
敗戦後、GHQの指導のもとに新憲法が制定され、民主主義的な国家建設が始まった。
衛生行政においても、明治以来の取締本位のあり方から米国流の近代公衆衛生思想にもとづく枠組みへと転換が図られた。既往の衛生関係法令のほとんどが改廃整備され、国・地方を通じて衛生行政機構の改革が実施された。昭和22年に地方自治法が改正され、都道府県に衛生部を必置することが定められた。そして同年の警察制度改革により警察が管轄していた衛生事務が全面的に衛生当局に移管された。
次に保健所はどうかというと、GHQが発令した「保健所強化に関する覚書」に基づき、旧保健所法が昭和22年に全面改正され、翌年から施行された。新たな保健所は、権限が大幅に強化され、広範多岐にわたる対物・対人サービスを担当するようになった。そして人口10万につき1カ所を目途に都道府県または指定市のもとに設置される第一線の行政機構として急速に配備され、厚生省-都道府県衛生部局-保健所という衛生行政の基本的な機構が成立した。
GHQの構想としては、公衆衛生活動の性格上、最も基礎的な自治体である市町村を保健所の設置主体とすることが望まれた。しかし、当時約1万に分立していた市町村の行財政能力は脆弱であったことから、これは実現できなかった。
この時期の保健所活動は、新しい公衆衛生の理念を掲げて推進されたため、保健所活動の合理化や効率化を求める教育・研究が芽生え始めた。その典型例が昭和26年に「衛生教育を中心とした保健所運営」によって第2回保健文化賞が授与された大阪府豊中保健所である。ここでいう衛生教育はいわゆる狭義の衛生教育ではないとされ、「公衆衛生活動の組織化のための総合的な条件整備計画であり、 保健所自体における組織的活動態勢の確立、管内の地域特性把握のための基礎資料の収集と基礎調査の実施、各種社会資源の実態把握、組織化のための広報活動などを主眼としたもの」であった[2],[4]。
③ 占領政策の是正
しかし保健所活動が理想に燃えて盛んであった時期は突然終わりを迎えた。それは昭和27年5月の対米講和条約の発効による独立達成後の「占領政策の是正」を契機として、政治は右旋回され、地方自治尊重の原則はゆらぎ、地方行政の合理化が進み、3割自治・1割自治体制が固定化されようになったからである[5]。
保健所についても、その設置数、国庫補助職員数、整備費補助金が削減された。 そしてこれ以降、所謂「ないないづくし」、「公衆衛生の黄昏」の時代が到来するようになった[6]。この傾向には昭和28年からの町村合併や昭和28-9年の地方財政の悪化の後押しもあった。またこれより先の昭和27年の地方自治法の改正により人口100万以下の都道府県では衛生部が必置でなくなったために、2 - 3年の間に約半数の県で独立の衛生部が消滅した。衛生行政は、土木行政などと同様に技術を基幹とする特殊な行政であり、業務の性格上独立した部制を必要とするものであるが、他の行政に比して後進的であり、利権を含むことが僅少であり、また日本国憲法の精神が保健所や自治体職員、また国民の間で十分に浸透していなかったことなどの理由によって、衛生行政の必要性が忘却されがちであったためであると指摘されている[3],[7],[8]。
④ 公衆衛生課題
この時代の公衆衛生課題は、昭和20年代前半は急性伝染病や食糧危機に対する対策であり、20年代後半には防疫から結核対策、母子保健および都市清掃などに移行してきた。そしてこれらの課題の性格上、上意下達式の対応が主に採られた。 これらの対策は良好な成果をあげたことで、昭和30年ごろには公衆衛生の主要課題は伝染病対策から成人病対策へと移行していった。
⑤ 小括
戦後の新憲法の制定によって、公衆衛生とその基盤である地方自治が定着していくかにみえた時期があった。保健所を中心とした公衆衛生活動は戦後10年の国民保健の改善に大きな貢献を果たしてきたが、その活動内容が伝染病予防を主体としていたため、社会防衛のための公権力の行使に貫かれていたところは旧態依然のままであった。そして「占領政策の是正」期間中に「保健所法の空洞化」と呼称される保健所の異常型が固定化されるに至った[9]。
このような法的行政は都市化・工業化が未熟で、感染症が猖獗した当時の日本社会においては時宜を得たものと評価できる面もあるが、次節で述べるように、社会経済条件の変動とともに質的に変化してきた保健問題の解決に役に立たなくなってきた[10]。
2.2. 総合保健システム化の構想
① 健康観の変化と包括医療
この節では占領政策の是正後、高度経済成長を経て、第一次石油ショックに至るまでの時期における保健問題、とくに保健所のあり方をめぐって議論された保健所改革論を取り上げる。
昭和25年の朝鮮特需を契機として産業・経済復興の兆しが顕れはじめ、昭和30年ごろには国民の生活水準がほぼ戦前の水準にまで回復した。
そして昭和30年代から40年代にかけては、高度経済成長政策によって社会経済条件が激動し、また前の時代の伝染病制圧によって疾病構造が変化したことをうけて、 国民の保健医療需要の拡大・多様化をもたらした(成人病、精神病、難病、公害、薬害および僻地、救急、老人医療など) 。これに対して保健サービスの提供側は強化されることもなく、その体制は旧態依然のままであった。
この時代、健康観が単なる疾病との関連としてではなく社会批判として捉えられるようになってきた。公害問題に象徴されるような生活環境の破壊と健康阻害がその背景にある。公害問題に対して市民運動が各地で盛り上がりをみせ、これにより国をして、昭和39年には厚生省に公害課を創設し、同39年には当時の内閣が社会開発を提唱し、同42年には公害対策基本法を制定し、同46年には環境庁が設置するなどの対策を採らしめるに至った。
また高度経済成長による生活の変容により、栄養過剰、ストレスの増大、運動不足などの新しい文明病をもたらし、半健康という状態が社会に蔓延した。また医療過誤の問題やイリイチの「脱病院化社会」が訳出され、高度化した医療システムへの批判がなされるようになった。
これらのことを背景として疾病の予防からリハビリテーションまでの全てのサービスを一貫して提供するような包括医療・総合保健の必要が主張されるようになった。
② 保健所改革論
これまで保健所の量的整備を迅速に行うことを目的として、一定のわかりやすい形式を定めて保健所の普及を図ってきた。一定の形式とは、すなわち、保健所の業務は12事業部門、組織は4課17係、規模はA級(建物300坪、定員61名)、B級(建物200坪、定員43名)、C級(建物150坪、定員35名)の3段階とされてきたことである。
このような保健所体制は「当時約10,000を数えた自治体の大部分が行財政力に乏しい小規模な町村であり、結核の蔓延に示されるように、保健問題がおしなべて全国平準的な当時の日本社会の実情に即応したもの」といえる[11]。
しかし「占領政策の是正」や昭和30年ごろを境とした都市化、工業化の進展にともなった保健問題の量的・質的変化により、保健所の人的・物的・制度的・財政的態勢と社会的要請との間に懸隔が顕在化し始めた。
そこで昭和32年には行政管理庁から保健所の監察と改善の勧告が出された。 これをうけて、昭和35年の「保健所の運営の改善について」、昭和42年の「基幹保健所構想」、昭和47年の「保健所問題懇談会基調報告」などの対応策が提出された。
「保健所の運営の改善について」は昭和35年8月16日の厚生事務次官通知として出された。この通知に基づき保健所型別再編成が実施され、保健所の分類は従来の級別規格によるものから、管轄地域の立地条件によってU型(都市型)、R型(農村型)、UR型(中間型)、L型(広域型)、S型(支所型)の五型に再編された。また「各市町村の区域を単位として、保健所、市町村その他の機関、団体などが共同して総合的な保健計画を樹立する」とし、市町村の共同保健計画が提案された。
これらは「保健所の過重業務を整理して極力これを他機関に移すこと」[11]や「国民皆保険による市町村国保と一般衛生行政との調整協同の必要」[3]という考えにもとづいているが、人員や予算等の条件整備がなされなかったため、所期の成果をあげることができなかった。
同一路線上でまた昭和43年には、「基幹保健所構想」が厚生省保健所課から出され、翌年の「保健指導網の近代化について」として公的な指導通知が準備されたが、これは案のままに終わった。
その主旨は「従来、全国に800の保健所を配置し、均一な行政事務を分担させることにより保健衛生の向上をはかってきたが、これを集中化することによって、技術の水準を高め、しかも効率の高くなる部門は極力基幹保健所に集中する一方、県本庁にある現業部門は極力基幹保健所に移行させるほか、公衆衛生関係技術の中核にある地方衛生研究所についても一層の近代化、合理化をはかることにより、地方衛生研究所、基幹保健所、一般保健所を系列とする新たな保健指導網を早急に確立し、新しい保健需要に対処すること」としている。この保健所の統廃合政策は「昭和43年度以降の国家公務員削減策、同44年度以降の保健所の新設を認めないという大蔵省の政策に対応する面を持っていたもの」とされている[11]。
その後、保健所改革の最終的な方針を明らかにするために、昭和45年に厚生大臣の諮問機関として保健所問題懇談会が発足した。そして昭和47年に「保健所問題懇談会基調報告」が出された。その報告内容は、健康増進からリハビリテーションへの一貫体制をとる、いわゆる包括医療の中で保健所を位置づけることを重視している。そして保健所機能を集中高度化すべきものと、分散充実されるべきものとに分類して、それぞれに対応する保健センターの体制構築を目指している。
すなわち市町村レベルの一次圏域(地区)、数市町村を合わせた二次圏域(地域)、数地域を合わせた三次圏域(広域地域)という圏域の考え方をだしており、各レベルごとに、協議会とサービス提供施設「地区保健センター」「地域保健センター」「広域地域保健センター」を配置し、「地区保健センター」では頻度の多い住民に密着したサービスを、「地区保健センター」では地区レベルでは行うことの困難なサービスや市町村間の調節を要するサービスを、「広域地域保健センター」では、地域レベルでは困難なサービスや高度の専門的技術を要するサービスを行うこととしている。そして現在の保健所は地域または広域地域保健センターなどに脱皮することとしている。保健サービスは行政サービスとして提供されることが多いので、行政区域を全く無視するわけにはいかない。そこで一次圏域は市町村とされ、三次圏域は多くの場合県域を想定している。
問題となるのは二次圏域である。そこで二次圏域を設定する目的で昭和48年に「地域保健医療計画策定委員会」が設置され、昭和49年の報告書において、当時の自治省が定めていた広域市町村圏が二次圏域としてほぼ妥当であるとする調査結果が出された。
③ 小括
この時代は経済成長政策や人口・疾病構造の変化に伴って保健需要が大幅に拡大したことをうけて、今後の保健所のあり方を巡ってさまざまな保健所改革論が出されたが、保健所体制の実態としては旧態依然のままであった。
保健所問題懇談会の基調報告が出されて、ようやく保健所改革は実施段階へと移行し始めたといえる。
改革の方向性としては包括医療・総合保健サービスを志向する保健システムの実現であり、そのための一次、二次、三次の圏域設定と各圏域ごとの協議会とサービス提供施設の設置・整備であった。
次節では、日常生活に密着した保健サービスを提供する末端組織 (上記の一次圏域に相当、市町村) の強化、すなわちプライマリ・ヘルス・ケア(PHC) の体制整備を主軸として話を進める。
はじめにWHOが世界共通の保健戦略に位置づけているPHCの考え方を参照する。次に「日本版PHC」とでもいうべき国民の健康づくり対策や老人保健法を取上げて、市町村主体の保健サービスの拡大・強化の動向を述べる。最後に保健法の全面改正によってできた地域保健法にもとづき、現行の地域保健体制を概説する。
2.3. 地域保健体制の確立
前節では当時の日本において保健医療需給の不均衡と医療費の増大が社会的問題になっていたことを述べた。このような保健医療の危機的状況は当時、欧米の先進諸国においても共通してみられる政策的問題であった。そしてこの問題に対する実践目標についても、社会体制などの相違をこえて共通していた。
すなわち保健医療サービスの地域組織化 (regionalization) である[12]。そして地域保健体制の中の一次サービスに相当するものはプライマリ・ケア、プライマリ・メディカル・ケア、プライマリ・ヘルス・ケアという術語で表現されてきた。
これらの語の意味は明確には区別し難く重複する部分も多いが、プライマリ・ケアやプライマリ・メディカル・ケアという語は、医者と患者間におこる医療問題に関する場合に使用することが多いのに対して、プライマリ・ヘルス・ケアは医療問題以外の幅広い文脈でも使用されることを考えて、以降ではプライマリ・ヘルス・ケア(PHC)という術語を使用する。
① WHOのPHC
昭和53年にUNICEF/WHO共催による国際会議において、アルマ・アタ宣言[13]が採択され、世界共通の保健戦略としてPHC概念が承認された。
WHOのPHC概念は南北問題を背景として発展してきたが、アルマ・アタ宣言では途上国・先進国の区別なく、地域保健に共通する原理が示されている。
そしてこの宣言では、参加国に対してそれぞれの国でPHCの実施計画を策定・呈出する努力を約束させている。
WHOのPHC概念については、WHOヨーロッパ事務局長KaprioによるPHCの4原則が、その本質を要約したものとして、しばしば引用される。
その4原則とは、(1) 住民のニーズにもとづく方策、(2) 地域資源の有効活用、(3) 住民参加、(4) 他セクターとの協調・統合である。
ここでは、これらの4原則をそれぞれ詳述することは避けるが、PHC概念は、「科学技術中心の西洋医学的論理で解決できない現代社会の体質に対し、 われわれ人間社会が共通に具備すべき原則に照らし、発想の転換をして現実的解決に当たろうとすること」や「各地域における保健医療活動に民主主義原則を改めて示し、多くの関係者に現実的反省を求めている」こと、すなわち、プライマリという語の示すように根源的な問題を見直そうとすることに強い関心があるように思われる。
② 国民健康づくり対策
日本では早速、アルマ・アタ宣言が出された昭和53年から、所謂「日本版PHC」である第一次国民健康づくり対策が厚生省予算の最重点項目として実施されるようになった (昭和53年度予算159億1,600万円)。
この計画は三本の柱から構成されている。
- (1) 第一の柱は「生涯を通じる健康づくりの推進」である。 母子保健対策、成人病予防対策、老人保健対策などの従来から行われてきた事業の強化・拡充とともに、これまで健康診断などの機会に恵まれなかった家庭の主婦や自営業の婦人を対象に、新たに健康診断と生活指導をすることになった。 すなわち生涯全体に亘って、健康増進からリハビリテーションまでを含むさまざまな対人保健事業を総括したものである。そして市町村をその実施主体に位置づけようとするものである。
- (2) 第二の柱は健康づくりの基盤強化であり、具体的には市町村保健センターの設置と保健婦の身分統合が行われた。人口10万人を圏域としていた当時の保健所 (昭和53年:858ヶ所)では、対人保健サービス機関としては圏域が広すぎた。そこで、市町村を圏域とする「市町村保健センター」が昭和53年から10カ年計画で約4000ヶ所を目標に全国的に新設されるようになった。市町村保健センターは住民に密着した対人保健活動の拠点として地域に開かれた場を提供するものとされ、 これにともない、保健所は専門化した二次的機関として機能強化を図らねばならぬものと考えられるようになった。これは昭和47年の保健問題懇談会基調報告の考えを実現したものであり、後述する平成6年の地域保健法によって法定化された。また当時、保健婦身分は保健所保健婦、市町村保健婦、国保保健婦の3つに分かれていたが、保健婦業務を衛生行政の体系に一本化し、地域保健の圏域を市町村の枠に一致させることを目的として、国保保健婦が市町村保健婦へと身分統合された。そして市町村保健婦は一次機能、保健所保健婦は二次機能を分担することが将来の展望とされた。
- (3) 第三の柱は健康づくりの啓蒙・普及である。 各市町村に、保健医療の専門家だけでなく、住民も参加する「市町村健康づくり推進協議会」を設置した。市町村はこの協議会に諮って総合的な保健計画を策定するものとされている。また市町村や保健所における健康教育・啓蒙活動のための資料提供や技術支援をする機関「健康づくり財団」が設置された。 以上のように、この計画はまさにPHCを志向したものであり、対人保健事業を都道府県-保健所から、住民により身近な市町村-市町村保健センターに移行・集約していくための条件整備がされはじめた。
③ 第二次臨調と老人保健法
これより先の昭和48年の第一次石油ショックにより、企業は赤字に転じ、国の税収は激減し、経済は低成長路線に入った。税収の減少を国債発行で補填してきたが、昭和56年の第二次臨時行政制度調査会の答申以降は、財政の合理化が図られ、医療問題についても「医療費の適正化」の名称のもとに医療費抑制政策がとられるようになった。
そして昭和57年の老人保健法の成立を嚆矢とし、昭和59年の健康保険法の改正、昭和60年の年金法の改正、昭和60年の医療法の改正、昭和61年の老人保健法の改正などが実施された。
以下では老人保健法について述べる。
人口高齢化が深刻化するに伴って、老人医療財政調達をいかにすべきかが最重要な政策課題の一つとして意識されるようになってきた。 老人医療費問題に対する議論は昭和40年代の国民健康保険の赤字問題に遡ることができる。 わが国の医療保険制度は被用者保険から成る健康保険制度と自営業者などからなる国民健康保険制度とに大別されるが、健康保険制度の被保険者の多くも退職後には国民健康保険に加入することになる。そこで人口の高齢化とともに健康保険制度と国民健康保険制度の保険者間で高齢者人口の比に大きな差が生まれることになる。 そのような状況の下で昭和48年からは老人医療費支給制度 (医療費無料化)が開始されたことによって老人の受療を容易にしたために、医療費が高騰し、医療保険の保険者間での財政負担格差が拡大した。
そこで昭和50年から厚生省内に老人医療費のあり方を検討する様々なプロジェクトが発足し、最終的に昭和57年の老人保健法の成立に至った。
老人保健法は二本柱からなる。
一つ目は医療費財源調達に関する事項である。これまで無料であった老人医療費の一部自己負担をもとめるようになった。また老人医療費調達として公費とともに各保険者から「老人保健拠出金」を徴集するようになり、その拠出金の額については保険者制度間の負担の公平性を担保する目的で「加入者調整率」という仕組みを導入し、結果的に比較的裕福であった健康保険組合に多額の拠出金を負担させることで国民健康保険への国庫負担の削減を図っている。これら、自己負担の導入・増加や公費から保険者負担への移行は、「医療費の適正化」の名目で展開される以後の医療・福祉政策の流れを象徴するものであるように思われる。
二つ目は保健事業についてである。 その実施主体は市町村、その対象者は40歳以上の住民、その費用負担は国・都道府県・市町村が各1/3ずつ、その事業内容は健康手帳の配布、健康教育、健康相談、基本健康診査、機能訓練、訪問指導と定められている。対象者が40歳以上からと壮年期を含むことから、実質的には成人病対策の事業ともみなされている。すなわち、成人病に対する公的保健事業を総合的・体系的に市町村レベルで総括する法律であるといえる。この時代、先に述べたように医療費予算については削減傾向であったものの、保健・衛生予算についてはこの老人保健法を武器にして増加傾向であったことが指摘されている[14]。
④ 地域保健法
平成6年には保健所法の全面改正と地域保健関係各法45本の一括改正からなる「地域保健対策強化のための関係法律の整備に関する法律」が成立した。これにより、保健所法は地域保健法と改称され、平成9年から全面施行されている。 この改正法では、人口の少子高齢化、疾病構造の変化、地域住民の多様化などに対応し、生活者の立場から地域保健の新たな体系を構築することを理念とし、地方分権を促進する方向で都道府県と市町村の役割の見直しが行われている。
保健所は「広域的・専門的・技術的拠点」と位置づけられ、二次医療圏や老人保健福祉圏単位を中心に整備されることになった。
市町村保健センターは「住民に対し、健康相談、保健指導、健康診査その他地域保健に関し必要な事業を行うことを目的とする施設とし、市町村が設置できるもの」として新たに法定化されるとともに、国庫補助規定が創設された。
地域保健対策については、地域保健法第 4 条第 1 項に基づき提出された、平成6年厚生省告示374号「地域保健対策の推進に関する基本的な指針」の下に推進されている。この基本指針は平成12年3月31日,平成15年5月1日,平成15年12月26日、平成19年7月20日、平成24年7月31日、平成27年3月27日の厚生省告示によって一部改正されてきた。特に平成24年度の改正では、後述するように、ソーシャル・キャピタルの概念を導入している。
⑤ 小括
この節では国民の健康づくり対策や老人保健法を通じて、十分な予算措置のもとに、対人保健サービスの提供主体が市町村に移行してきたことを述べた。これをうけて都道府県や保健所は広域的・専門的な拠点としての役割へと移行していくこととなった。そして地域保健法に至って両者の役割が明確に規定された。
3. 住民自治への展開
3.1. 日本における健康づくり政策
第二次世界大戦後の先進諸国では、非感染慢性疾患 (後述する成人病や生活習慣病などに相当する) の克服が主要な保健医療の課題であった。日本でも昭和30年ごろを境に、伝染病の流行が収束してきたことをうけて、国民の主要な疾病課題が成人病 (主に循環器疾患とがん)へと移行していった。
本節では、これまでの日本における成人病・生活習慣病に対する保健対策の変遷を簡単に整理する。
① 二次予防を中心とした成人病対策
成人病は行政用語であり、昭和32年に厚生省衛生局が「高血圧・心臓病部会およびがん部会」から構成される「成人病予防対策協議連絡会」を設置したことを契機として初めて使用された。この連絡会の議事録に「成人病とは主として、脳卒中、がんなどの悪性疾患、心臓病などの40歳前後から急に死亡率が高くなり、しかも全死因の中でも高位を占め40 - 60歳くらいの働き盛りに多い疾患を考えている」との記述がある。
これらの疾病に対する保健医療対策については、まずは循環器疾患のための健診・がん検診による早期発見・早期治療 (二次予防)の体制が整備された。特に先述した老人保健法にもとづく保健事業によって全国民に健診・検診を提供する体制が構築された。
老人保健法に基づく保健事業は、第一次計画 (昭和57年 - 昭和61年度)、第二次計画 (昭和62年 - 平成3年度)、第三次計画 (平成4年 - 平成11年度)の途中までは検査項目の追加が相次ぎ健診・検診ばかりが強化されてきた。しかし平成10年には、がん検診が老人保健法の法定事業から一般財源による市町村事業に変更されるという逆行する動きもみられている。第四次計画 (平成12年 - 平成16年度) では、健診所見に基づき「健康度評価」および「個別健康教育」を行うことで循環器疾患を予防するという、今日の特定健診・特定健康指導の萌芽がみられている[15]。 その後は第四次計画の考え方を踏襲した単年度計画「保健事業平成17年度計画」および「保健事業平成18年度計画」が実施され、平成18年の医療制度改革によって「老人保健法」が「高齢者の医療の確保に関する法律」に改正された。
また昭和53年から国民の健康づくりの促進を目的とした総合的な活動である「国民健康づくり対策」が始まっている。
「第一次国民健康づくり対策」では先述したように、健診体制の整備・強化が図られている。また健康づくりの三要素 (栄養、運動、休息) のうち、栄養に関する取組みが行われた。
昭和63年には、人生80年時代の到来をうけて、80歳になっても身の回りのことができ、社会参加もできるようにするという趣旨で「第二次国民健康づくり対策 (アクティブ80ヘルスプラン)」が10カ年計画で開始された。
第二次国民健康づくり対策では、健康づくりの3要素の中、運動と休息、特に取組みの遅れていた運動面からの健康づくりの強化に重点を置き、健康づくりのための運動所要量や運動指針の策定、運動指導員の養成、健康増進施設の認定などが行われた。
この第二次対策から次の第三次対策に移行していく時期に、成人病予防対策は早期発見・早期治療による二次予防から、個人の生活習慣の変容による一次予防へと重点が移行していった。それを端的に表すのが、次に示す生活習慣病概念の導入である。
② 生活習慣改善による一次予防
平成8年の「公衆衛生審議会意見具申」において、「食習慣、運動習慣、休養、喫煙、飲酒等の生活習慣がその発症・進行に関与する疾患群」と定義される「生活習慣病」の概念が導入された。
これは、がん、循環器疾患、糖尿病などの「成人病」と総称されてきた疾患群は加齢に伴って罹患率が増加するが、その背景には若い頃からの食生活や運動、喫煙、飲酒、ストレスなどの生活習慣の蓄積が深く関与することが明らかになってきたことをうけて、加齢という要素に着目した「成人病」から、新たに生活習慣という要素に着目して捉えなおした「生活習慣病」を導入することで、生活習慣の改善により疾病の発症・進行が予防できるという「一次予防」の重要性の認識を国民に醸成し、健康に対する自発性が促すことが目的であった。
そして以後は生活習慣病という観点から疾病が横断的に整理されていき、「健康はもはや異常との対概念ではなく、細分化されたリスクファクター (著者注: 生活習慣など) の束で構成されているという全く異なる機制の中にあるもの」[16] とされていった。
平成12年には、21世紀における新たな総合的な保健政策として、「第三次国民健康づくり対策 (健康日本21)」が策定された[17]。
この策定の経緯は、平成9年の公衆衛生審議会健康増進栄養部会・成人病難病対策部会合同部会専門委員会「今後の生活習慣病対策について (中間報告)」において、国民の健康に対して大きな影響を与える疾病などに対して総合的かつ具体的な達成目標およびそのための手順を示した「健康日本21」の策定の必要性が謳われたことに始まる。これは経営学において用いられてきた目標管理手法を保健医療分野に応用したものである。また「Evidence Based Healthcare」の重要性に対する認識の拡大をうけて、「健康日本21」の計画策定においてはこれまで集積された知見を参照するとともに、健康日本21企画検討会、計画策定検討会など各種専門家による委員会の検討、地方公聴会による意見聴取を経て目標設定が行われた。
具体的な数値目標は、「栄養・食生活」、「身体活動・運動」、「休養・こころの健康づくり」、「たばこ」、「アルコール」、「歯の健康」、「糖尿病」、「循環器病」、「がん」の計9分野の59項目 (全指標80項目中、再掲の21項目を除く) に分類されて、2010年までの到達目標が示された。
わが国におけるこれまでの保健事業は、必ずしもすべての一般行政関係者や保健関係者から十分な信頼と期待を寄せられるものではなかった。その理由の一端が、保健事業の成果を客観的に数値で示すことができなかったこととされている。この反省の上に、「健康日本21」以降の保健政策では、適切な評価体制が導入されている[18]。
平成14年には「健康日本21」の法的基盤を整備するために「健康増進法」[19]が制定され、平成15年から施行されている。その第二条には「健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」ことを国民の責務としている。健康増進法の内容としては、平成15年に廃止された栄養改善法の内容も引継ぎながら、国民の健康増進の総合的な推進を図るための基本的な方針を定めること、国民健康・栄養調査の実施に関すること、保健指導などの実施に関すること、受動喫煙の防止に関することなどとなっている。
遡ること平成6年に、大阪大学の松澤祐次教授が肥満症を「内臓脂肪蓄積型」と「皮下脂肪蓄積型」に分けて、「内臓脂肪蓄積型肥満」が高血糖や高血圧、脂肪代謝異常を合併した病態を「メタボリック・シンドローム(内臓脂肪症候群)」として冠動脈疾患などの上流にある病態であることを報告した。平成17年4月には日本におけるメタボリック・シンドローム評価基準がメタボリック・シンドローム診断基準検討から発表された。同年12月には政府・与党医療改革協議会が「医療制度構造改革大綱」を発表した。そして医療制度改革においては、生活習慣の予防を中長期的な医療費適正化対策の柱の一つとして位置づけ、「メタボリック・シンドローム」の概念を導入し、(1) 国民の運動、栄養、喫煙面での健全な生活習慣の形成に向けて「予防」の重要性に対する理解の促進を図るための国民運動の展開、(2) 医療保険者の役割の明確化を行い、糖尿病などの予防に着目した健診・保健指導の計画的な実施を義務付け、効果的な健診・保健指導の徹底を図ることとしており、今後、医療制度改革の施行に向けた取組みとして、(1) 健診・保健指導の重点化・効率化、(2) 都道府県健康増進計画の内容の充実に取組むことが述べられている。
特に、健診・保健指導については医療保険者の役割を明確化し、国民健康保険および被用者保険の医療保険者に、40歳以上の被保険者および被扶養者に対する糖尿病などの予防に着目した健診・保健指導の重点化を図ることとしている。これは「高齢者の医療の確保に関する法律」[20]に基づき、平成20年にメタボリック・シンドロームに着目した「特定健康診査・特定保健指導」[21]が導入されたことで実現した。
これに伴い、それまで市町村が実施してきた40歳以上の人を対象とした老人保健事業に基づく基本健康診査については、(1) 40 -74歳の人は、各医療保険者(国保・各被用者保険)が実施主体として、加入者(被保険者・被扶養者)を対象に特定健康診査を実施、(2) 75歳以上の人(一定の障害がある65歳以上の人で、後期高齢者医療制度の被保険者の人を含む)は、各都道府県に設置された後期高齢者医療広域連合が実施主体として後期高齢者健診を実施することになった。
このように、税金制度から保険制度へと実施主体が移行したことは、国民が自らの責務をより明確に果たす形へと移行してきていることを示すものである。
さらに再編された健診体制では、各保険者の健診への参加率・保健指導の実施率・改善率に応じて後期高齢者制度に各保険者が拠出すべき負担額が増減される仕組みが導入されている。
また、メタボリック・シンドロームの概念を導入したことにより保健指導の対象が明確になった。健診については保健指導の可否の判定や保健指導のレベルを判定するために実施する。すなわちリスクの程度に応じて保健指導の対象者を階層化することとなる。
階層化においては対象者を積極的支援レベル、動機づけ支援レベル、情報提供レベルと判定している。状況提供レベルについては情報のみを提供している。動機づけ支援レベルについては医師、保健師、管理栄養士による面接を実施し、不規則な生活習慣を改善するための行動変容の動機づけを行っている。積極的支援レベルについては医師、保健師、管理栄養士による面接、保健指導の実施とその結果の評価という、積極的な介入を行い、行動変容を促すこととしている。
平成23年には「健康日本21」の最終評価[22]が出された。
「健康日本21」は個人の自覚による生活習慣の変容をもたらすことに基づき、59項目の数値目標に対して約10年亘って努力されてきたものであったが、その結果は目標達成が10項目、悪化が9項目であり、期待されていた成果を挙げることができなかった。
③ 小括
この節では、成人病・生活習慣病対策としてはじめに健診・検診体制の整備について述べたのち、生活習慣病概念の導入を機に二次予防中心から一次予防中心の保健対策に移行してきたことを述べた。
そして健康日本21の活動理念のもとに、一次予防にもとづく活動を展開してきたが、その成果はあまり芳しいものではなかった。
海外でも「健常者を対象に冠動脈の一次予防を目的とした14の研究 (対象者13万9256人、追跡期間の中央値12か月) の分析結果、総死亡率の総合オッズ比は1.00 (95%信頼区間0.96~1.05)で有用性は示されなかった」などといった事例も多くみられている[23]。
このことから単に行動変容にもとづく一次予防だけでは生活習慣病対策としては不十分であることが示唆される。
また生活習慣病概念の導入や健康増進法に象徴されるように、健康上のリスクや責任を個人的な問題に帰属させるような規範が顕在化してきたことについて指摘した。そして特定健診・特定保健指導では、「リスクの高低に応じて人々を分類し、それに応じて保険者の保健事業を評価する」ことで、後期高齢者医療制度における各保険者の拠出金を増減するという政治的合理性が出現したことを述べた[16]。
次節ではWHOのヘルス・プロモーション (HP) 戦略について述べる。健康日本21ではこの戦略を採用しているとされているが、その実態はWHOのものとはかけ離れていた。これが健康日本21において所期の成果を挙げることができなかったことに対する有力な説明となる可能性がある。
3.2. WHOのヘルス・プロモーション
① オタワ憲章と健康生成論
昭和61年にオタワで開催されたWHO国際会議において、HPの戦略理念が提唱された[24]。これはPHC戦略の延長線上に位置づけられ、主に先進国向けの保健戦略とされている。
オタワ憲章の中では、HPを「人びとが自らの健康をコントロールし、改善することができるようにするプロセス」と定義し、その目標を「すべての人々があらゆる生活の場で健康を享受することのできる公正な社会の創造にある」とし,その活動内容を① 健康な公共政策づくり、② 健康を支援する環境づくり、③ 地域活動の強化、 ④ 個人技術の開発、⑤ ヘルス・サービスの方向転換、の五つに分けている。
WHOのHPは、Antonovskyの「健康生成論 (salutogenic theory) [25] の考え方を基調としている[26]。
生物医学・病理学的アプローチでは、健康が疾病に対するリスクの除去によって生じるとするのに対して、この理論に基づくアプローチでは疾病ではなく健康に焦点を当てて、健康のための資源や健康創りの過程に着目している。そして健康が環境・文脈との相互作用を通じて動的に形成されることを強調して、健康生成的な社会環境条件を創造していくことを重要視している[27]。
② 健康の社会的決定要因と健康格差
1990年代、冷戦終結にともない経済のグローバル化が進展していくと同時に所得格差も拡大していった。
そしてこのころから、欧州やWHOにおいて、健康格差の問題とその原因が健康の社会的決定要因 (SDH) の分布の偏りにあることが次第に注目されるようになってきた。
その契機が昭和55年の英国のブラック報告が平成4年に再出版されたことである。またこのころEUのほとんどの国で左派政権が誕生したことも健康格差が着目されるようになったきっかけとして指摘されている。平成10年には、WHOから「健康の社会的決定要因」と題する報告書[28]が出されている。WHOやヨーロッパ地域を中心に、グローバリゼーションによる格差拡大への反動として公正・平等を求める声が高まり、SDHという概念のもとに研究が集約されていったものである。
これらの流れを受けて、平成18年にWHOは「すべての政策に健康の視点を “Health in All Policies (HiAP)”」を提唱した。これは「公共政策に関わる多くの部門が、政策決定が人々の健康に及ぼす影響を系統的に考慮し、部門間の協働を強め、健康への悪影響を回避することであり、これにより人々の健康レベルと健康上の公平を改善するもの」である[29]。
またWHOは平成17年に「健康の社会的決定要因に関する委員会」を設置し、平成20年にその最終報告書[30]が出され、平成21年のWHO総会決議[31]では「SDHへの活動を通じた健康格差の縮小」を謳っている。その後の進捗状況や課題、平成23年のリオデジャネイロ市で開かれたSDHの世界会議[32]で確認されている[33]。
日本でも、厚生労働省の「平成22年国民健康・栄養調査」[34]において、世帯所得と生活習慣との関連が初めて検討され、低所得者層に生活習慣上のリスクが集積していることが示された。
3.3. 健康日本21 (第二次)
平成24年から「第二次健康日本21」[35],[36]が10カ年計画 (平成25-34年度)で実施されている。
この計画ではWHOのHP戦略に従い、従前の健康づくり政策が「個人の生活習慣の改善」の取組のみに重点を置いていたのに対して、「個人の生活習慣の改善」と「健康のための社会環境づくり」の両軸を据えていることが、大きな特徴である。
そして「健康を支え、守るための社会環境の整備」の目標として、「ソーシャル・キャピタルの向上」が掲げられている。また同時期に改定された「地域保健対策の推進に関する基本的な指針」(平成24年7月31日厚生労働省告示第464号) [37]では、 「地域保健対策の推進に当たっては、地域のソーシャル・キャピタルを活用し、住民による共助への支援を推進すること」との記述が追加された。
ソーシャル・キャピタルの定義としては「人々の協調行動を活発にすることによっ て、社会の効率性を高めることのできる、「信頼」「規範」「ネットワーク」といった社会組織の特徴」というパットナムの提唱したものが主に参考にされている。厚生労働省は「地域保健事業におけるソーシャル・キャピタルの活用に関する研究」を実施し、その成果の一部として、平成26年には「ソーシャル・キャピタルを育てる・活かす!地域の健康作り実践マニュアル」[38]、平成27年には「住民組織を通じたソーシャル・キャピタル醸成・活用にかかる手引き」[39]を作成し、都道府県や市町村などの関連組織が活用できるように一般公開している。
また第二次健康日本21では、健康格差対策に対する世界的潮流をうけて、「健康格差の是正」が大目標のひとつとして掲げられている。
4. おわりに
本稿では明治の開国から現時に至るまでの日本における保健衛生活動の行政側からの取組み、 主に地域保健システムの構築過程および国民の健康づくりのための諸政策をたどることを通じて、我が国の保健衛生の分野における地方自治に向けての重要な転機を整理することを試みてきた。
第2章では地方分権化していく流れとして、地域保健体制が整備されていく様子をまとめた。明治以来、日本の衛生行政は法的行政的性格に偏重してきたが、伝染病流行の収束や高度経済成長政策による社会変動をうけて、社会的要請に対してより柔軟な対応ができる保健衛生行政体制への転換にせまられた。
その後、昭和47年の保健所問題懇談会基調報告に示されているような方向に地域保健体制が整備されていき、昭和53年の国民健康づくり対策や昭和56年の老人保健法では予算措置のてこ入れのもとに対人保健の提供主体としての市町村の強化が推進され、平成6年の地域保健法の改正・成立によって、都道府県-保健所と市町村との役割分担が明確化されたことを述べた。
現在では保健・医療・福祉・介護を地域内・地域間において連携・統合していく動きがみられているが、この動向を整理することは今後の課題としたい。
第3章では住民自治に向けての動きとして、わが国の成人病・生活習慣病に対する保健政策の展開を整理した。
わが国の成人病・生活習慣病対策は、循環器疾患やがんに対する健診・検診体制の整備を中心にはじめられ、その後、生活習慣病の導入や第一次健康日本21において行動変容による一次予防中心の政策へと移行した。
一次予防中心の施策だけでは必ずしも所期の成果をあげることができないことに対する認識が拡大していったことをうけて、WHOのHPが提唱している「健康のための社会環境づくり」を重視するアプロ―チを採用して、現行の第二次健康日本21においては「個人の生活習慣の改善」と「健康のための社会環境づくり」の両軸を据えていることが大きな特徴であり、「健康を支え、守るための社会環境の整備」の目標として、「ソーシャル・キャピタルの向上」が掲げている。そして「地域保健対策の推進に当たっては、地域のソーシャル・キャピタルを活用し、住民による共助への支援を推進すること」とされている。
以下では、今後の保健衛生活動の方向性について私見を2点述べたい。
(1) 高度経済成長期に公害問題に対する住民運動が全国の至る所で展開された。 これに対して保健・医療サービスの問題は、住民のニーズが個人的な次元で現れるものであるために、市民意識にもとづく住民運動に発展しにくいという性格を有すると考えられる。特に、生活習慣病対策として展開された、行動変容による一次予防を強調したアプローチが公衆形成に向かないことは明らかである。これに対してWHOのHP戦略においては、社会環境づくりによるアプローチを推奨している。そして社会的因子が健康に影響を与えるということを実証している研究成果を集積・整理し、SDHという名のもとに集約し、この新たに創作された「象徴」をもちいて、人々が共通の知識・目標・信念などを所有することができるように言論・思想を導いている。
またSDHの研究から次第に健康格差の存在が顕在化されてきたことは、生活習慣病などの健康問題においても、単なる個人の規範としての問題としてではなく、実際には社会的公正に関する問題として捉えなければならないという認識を生み出している。
以上に認識を深めていけば、生活習慣病などの問題も公害問題などの環境問題に十分に接近してきて、社会的に解決しなくてはならない問題となってくる。そこで今後の保健医療活動において、まず第一に大切なことと考えられることは、この「象徴」に対する認識を人々の生活の中に根付かせていくことである。生活習慣病の問題はすべての人を対象とし、各人において強い関心が抱かれており、日常生活の広範に関する問題であることから、 生活習慣病対策を社会的問題として再構成していくことを通じて、ソーシャル・キャピタルを涵養しつつ、他の問題にもこれを利用していくことがよいように思われる。
(2) 以上のことを推進するために、「専門的・技術的拠点」と位置づけられている保健所などの専門機関が地域の科学的な診断・政策提言を行い、予算と時間と労力の重点的使途を判断することができるような情報を提供し、住民が取組むべき課題を十分に活性化することができるように、これらの機関を強化してことであるように思う。
知の集積においても国家から地方への分権化が必要である。米国におけるCDCやシンクタンクなどの組織はそのためのヒントを与えてくれる可能性があるので、今後の検討課題としたい。
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